歴史

春日仏師の彫刻による秘仏

『千手観世音菩薩立像』(江戸時代)

安置された逗子

逗子扉上中央には、授かった菊の御紋、その外側には、久居藩初代藩主藤堂高通公の祈願所を物語る藤堂蔦紋がそれぞれ施されている。

◆由緒◆

 青瀧山千手院賢明寺は、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、天平年間(730年頃)に、聖武天皇の勅を奉じた僧行基によって開基されたと伝えられる。

 その後、延元三(1338)年、雲出川合戦の兵火にかかり、大伽藍の諸堂は煙と化したが、正平二十一(1366)年、北畠顕能公が国司に任ぜられると本尊に帰依され、本堂をはじめ諸堂を建築し、北畠氏代々の祈願所と定められ、盛運に復した。

 ところが、永禄一二(1569))年、織田信長公が北畠具教公を大河内城に攻略の際、木下藤吉郎の先陣により、再び兵火にかかり、烏有に帰す。

 しかしながら、不思議なことに本尊だけは難を免れたようで、寛永年間(1630年頃)、実順法師が天下の有志に浄財を請い、堂宇を造営して法燈を維持した。

 寛文十(1670)年、藤堂高通公が久居に分封され、藩主になられると、深く本尊に帰依され、代々の祈願所と定めて、寺禄として年々米百万石を寄進し、護国利民を祈願された。

 享保四(1719)年には、本尊の霊験の灼なることが中御門天皇の叡聞に達し、当時の住僧、智空法師が京都御所に招かれて勅し、本尊に求子の祈願をしたころ、翌年元旦に皇太子(後の桜町天皇)が御降誕になられた。

 これを受け、中御門天皇は般若心経一巻を書写して当山に納められ、勅願所の勅額と菊の御紋章を下賜されるとともに、寺院の格式を表す定規筋(三本筋入り)を山門土塀に施すことを許可された。

 創建当時、賢明寺は、客殿や花見御殿などを有する七堂大伽藍の寺院であったとされているが、明治維新以降に実施された廃仏毀釈により、寺禄の殆どが没収された。賢明寺に残る銅灯篭や梵鐘などの銘からすると、現在の賢明寺の寺観は、江戸時代中期頃整えられたものと考えられる。